造物主の置手紙

生物の名前や系統について

結局、ヒトのタイプ標本は誰なのか?

はじめに

本記事は「ヒトのタイプ標本問題1」について、少なくとも私が理解している事柄を整理することを目的として書かれている。必ずしもすべての論点を網羅できているわけではないことに注意してほしい。

また、本記事の内容はEarle E. Spamerの議論(Spamer, 1999)に依拠するところが大きいが、国際動物命名規約については第3版ではなく第4版を参照している2。つまり、本記事で「条」「勧告」と書かれている場合、それは『国際動物命名規約第4版日本語版』における条項や勧告を意味している。

ヒトのタイプ標本問題とは

現在の動物命名法では「タイプ化の原理」のもと、科階級群以下の名義タクソンは担名タイプをもつ(条61)。種階級タクソンの場合、これは担名タイプ標本であり、たとえば、Pongo tapanuliensisの担名タイプ標本はインドネシアの博物館に保管されているMZB39182である(Nater et al., 2017)。このように名義タクソンが担名タイプと結びついていることによって、複数の学名の中から有効名一つだけを客観的に選び出すことが可能となる。

この原理を理解したとき、当然ながら次の疑問が生じることになる。タイプ化の原理はヒト(Homo sapiens)にも適用されるのだろうか?もし適用されるのだとすれば、これまで地球上に存在してきたヒト個体のうち、誰がヒトの担名タイプ標本に選ばれているのだろうか?これが「ヒトのタイプ標本問題」である。

この疑問に対する回答として挙げられることが多いのは、次の3つである(和田, 2001)。

  1. ヒトには担名タイプ標本が存在しない(非存在説)
  2. ヒトの担名タイプ標本はカール・フォン・リンネである(リンネ説)
  3. ヒトの担名タイプ標本はエドワード・ドリンカー・コープである(コープ説)

はたしてどれが正しいのだろうか?


結論から先に言えば、カール・フォン・リンネがヒトの担名タイプ標本である。というのも、動物命名法国際審議会がウェブページで「タイプ標本はリンネである」と回答しているのである(Notton & Stringer, 2013)。動物命名規約の「公式」がそう明言しているのだから、まず間違いないと言って良いだろう。

これとは対照的に、日本語圏においては非存在説の人気が根強いようにみえる。たとえば、日本語における命名規約の理解に大きく寄与しているであろう、大久保憲秀『動物学名の仕組み』でも非存在説に言及している(後述)。またインターネット上を検索してみても、大学や博物館において非存在説がまことしやかに語られている様子が窺える3, 4。実際、私もかつては非存在説を信じていた。

では、なぜリンネ説が正しく、他の説が誤っていると言えるのだろうか?

リンネ説

1758年〜1959年

現在の動物命名法の起点の一つである『Systema Naturae』第10版(条3.1)は、1758年にカール・フォン・リンネによって出版された(Linnaeus, 1758)。彼がこの本の中で最初に設立した種がヒト Homo sapiensである。しかし、このときリンネはH. sapiensの形質については詳細に記載したものの、使用した標本については明記しなかった5

このような場合、仮に単一の標本に基づいたことが明らかであれば、タイプ標本としてホロタイプが固定されることになる(条73.1.2)。しかし、H. sapiensが複数の標本に基づいていることは疑いようがないため、複数のシンタイプ(条73.2)がタイプ標本である。とくに今回は2000年よりも前の事例であり、H. sapiensタイプシリーズが自動的にシンタイプとなる(条72.1.1、条73.2)。

H. sapiensのタイプシリーズは、原著者のリンネがH. sapiensであると考えた標本すべてで構成される(条72.4)。それはすなわち、リンネが1758年までに観察してH. sapiensとみなした、周囲の家族や知人、文献に記された古今東西のヒト、そしてリンネ自身も含む、膨大な数のヒト個体である6

まとめると、ヒトのタイプ標本は1758年からしばらくの間、リンネ自身を含む複数の標本(シンタイプ)の集まりであった。

1959年〜現在

この「ヒトのタイプ標本=複数の標本の集まり」という状況は200年間続くことになるわけだが、これは1959年にウィリアム・T・スターンによって転換される。 彼は分類学に関するリンネの功績をまとめた論文において以下のように述べた。

Since for nomenclatorial purposes the specimen most carefully studied and recorded by the author is to be accepted as the type, clearly Linnaeus himself, who was much addicted to autobiography, must stand as the type of his Homo sapiens!
Stearn, 1959, p. 4

この一文をもってして、彼がシンタイプの中からリンネをレクトタイプに指定した(条74)と解釈するわけである。短い記述ではあるものの、2000年よりも前のレクトタイプ指定であれば必要な要件は比較的少なく(条74.5)、このスターンによるレクトタイプ指定はおそらく有効となる。この指定が有効であると主張しているのがSpamer (1999)やNotton & Stringer (2013)である。

また別の例としては、Spamer (1999, p. 111)も参照しているように、『Mammalian Species of the World』(Wilson & Reeder, 2005)においてH. sapiensのタイプ産地(条76.1、条76.2)がスウェーデンのウプサラとされている。ウプサラはリンネが長年を過ごした場所であり、また彼が埋葬されているウプサラ大聖堂の所在地でもある7。このことは『Mammalian Species of the World』の編集者たちもまたリンネをタイプ標本とみなしていたことを示している8

このように、リンネ説はリンネがヒトのレクトタイプであるという主張であり、命名規約に照らし合わせてもとくに問題は存在していない9

他説の検討

非存在説

次に非存在説について、具体例として大久保憲秀『動物学名の仕組み』(大久保, 2006)を取り上げて検討する。大久保は、国際動物命名規約においてネオタイプ指定の条件が厳しい理由を考察する中で、非存在説に言及している。

75.2. 除外する状況
〔…〕
本条のように不要な担名タイプの指定を無効とする規定は、ネオタイプ独特のものである。レクトタイプでは勧告にすぎない(勧告 74G)。〔…〕表立って示されていないのであるが、ネオタイプの指定だけにこのような厳しい条件をつけた理由として、次のような判断があったのではないかと思われる。
1)古い担名タイプの標本を故意に破棄する行為に対する牽制:〔…〕
2)Homo sapiensのネオタイプ指定に対する牽制: ヒトの担名タイプがホロタイプであったかシンタイプであったかはともかく、実際の標本は残されなかったと言われている。担名タイプの標本の原基準としての客観性は命名規約の根幹であることから、ヒトの担名タイプの不在は命名規約の土台を揺るがす大問題のはずである。一方、欧米では、宗教と人種差別の観点からヒトの原基準を設定すること自体が倫理的に憚られている。ヒトのネオタイプ指定を無効と決めつける根拠として、本条を布石にしておいたのではないだろうか。そのような指定に対して、「固定の必要性を認めない」と反論するためである。キリスト教社会にとって、現人類としてのヒトは1種であらねばならないのである。種の定義の一つに生物学的種という考え方があって、互いに交配可能で持続性のあるグループを種とみなしている。「すべての人種はこの定義に合致するから一つの種である」という結論は実は逆で、すべての人種を一つの種とするために考案された種の定義方法が生物学的種だと考えるべきだろう。「種の単位はヒトである」とする欧米文化の暗黙の合意事項が、命名規約の隠れた基盤になっている。ヒトの担名タイプが存在すると、その基盤は崩れてしまう。命名規約を守るためには、「ヒトの担名タイプ」という概念さえあってはならないと考えているかもしれない。
大久保, 2006, pp. 245–246

この考察の中には、非存在説の根拠として言及されることの多い2つの要素が含まれている。

  1. ヒトの担名タイプとなる実際の標本は残されていない
  2. 宗教と人種差別の観点から担名タイプを指定できない

まず第1の要素だが、これは事実誤認である。上記で確認したように、リンネによるH. sapiens設立の時点ですでに複数のシンタイプが存在していた。そしてそのシンタイプだった標本の少なくとも一つ、すなわち現在のレクトタイプであるリンネの遺体は現在までウプサラ大聖堂の地下に残されている。博物館や大学などの研究機関で保管されているという状況ではないにしろ「実際の標本は残されなかった」というのは誤りである10

次に第2の要素だが、そもそも「ヒトの原基準を設定すること自体が倫理的に憚られている」という認識が正しいのか、私にははなはだ疑問である11。また仮にそのような倫理的忌避が存在していたとしても、現行の規約においてH. sapiensのシンタイプやレクトタイプの指定を無効化できていない以上、H. sapiensの担名タイプ標本の指定を回避する意図は、国際動物命名規約に含まれていないと考えるのが自然だろう。よって、倫理的観点から「担名タイプを指定できない」というのもおそらく誤りである。

したがって非存在説は、少なくともこれら2つの要素に基づくものについては、成立するための論拠を欠いていると言える。

コープ説

次に、コープ説について検討する。コープ説はルイ・シホヨスの著書『Hunting Dinosaurs』に由来する(Psihoyos, 1994)12。シホヨスはこの本の中で「1993年にロバート・トーマス・バッカーエドワード・ドリンカー・コープの頭骨をH. sapiensのレクトタイプとして指定した」というエピソードを紹介した。

英語圏の古生物ファンダムにおいては一時期、このコープ説がまことしやかに囁かれていたという(Spamer, 1999)。また日本語圏においても、本当にコープが担名タイプ標本であるかはともかくとして、コープ説に対して好意的に言及されることがある13

バッカーはコープの頭骨用に立派な箱と金属の銘板を新調し、タイプ標本の論文を執筆した。〔…〕しかしバッカーの論文は結局は発表されず、ヒトのタイプ標本を作る試みは実現しなかったようだ。
金子, 2011, pp. 58–60

しかしコープ説には複数の問題点が存在する。

まず最大の問題点として、コープをタイプ標本に指定する論文は公表されていない。少なくともSpamerは確認できなかったと記している(Spamer, 2002, p. 13)。さらにMayer (2009)のブログ記事によれば、バッカーが投稿したというJournal of the Wyoming Geological Societyなるジャーナルはおろか、Wyoming Geological Societyという団体すら存在しないらしい。

仮にバッカーの論文が出版がされていた、あるいは『Hunting Dinosaurs』自体がレクトタイプ指定の公表であるとみなされた、と考えるとどうなるだろうか。その場合、先にスターンによってリンネがレクトタイプに指定されているため、バッカーによるコープの指定は無効となる(条74.1.1)。では、スターンによる指定が無効であるとの主張の上でコープを指定したとすればどうだろうか。しかし、コープが生まれたのは1840年、つまり1758年のリンネによるH. sapiensの設立のはるか後であり、コープはH. sapiensのタイプシリーズの中に含まれない。つまり、コープがシンタイプでありえない。レクトタイプはシンタイプの中から指定するため(条74.1)、コープをH. sapiensのレクトタイプに指定することは不可能である。ゆえにコープのレクトタイプ指定はいかなる場合でも無効となる。

あるいは、万が一バッカーがコープをネオタイプに指定していたとすればどうなるだろうか。その場合でもリンネの遺体がレクトタイプとして現存するため、ネオタイプ指定は無効である(条75.1)。さらにリンネの遺体が喪失していたことを仮定しても、指定するためには厳しい条件を満たしている必要がある。とりわけ、ネオタイプの指定は名義タクソンの客観的な定義が必要な場合にのみ有効であり(条75.1、条75.3)、その必要性をはっきりと示さなければならず(条75.3)、ネオタイプの指定だけを最終目的にした指定は無効である(条75.2)。H. sapiensの客観的な定義は現在のところ必要性が薄いと考えられるため、無効である可能性が限りなく高い。

したがって、コープ説は規約上の問題を抱えており、成立しないことはほぼ間違いない。

まとめ

ここまで見てきたように、非存在説とコープ説はともに国際動物命名規約上の問題点を抱えている。一方でリンネ説は規約に反することなく成立する。よって、現時点においてヒトのタイプ標本(レクトタイプ)はカール・フォン・リンネである

もちろん、リンネの遺体に標本ラベルが付けられたり、リンネと化石人類が比較研究されたりすることはない。わざわざ墓から掘り返さなくても、他にも確実にH. sapiensである個体は地球上に溢れかえっているのだから、それを使えばH. sapiensの研究には十分だからだ。要するに、ヒトに適用されている「タイプ化の原理」は命名上の客観性の担保というよりも、単に規約における形式的なもの、そしてリンネの名誉を称えるものとして機能しているのである。

Linnaeus's bones are, of course, not openly available for study, but how any examination of them could advance our understanding (or taxonomic recognition!) of the species is unimaginable. Given this, and the fact that there is no confusion in the taxonomy of this species without a type, the typification of Homo sapiens is, frankly, an honorary declaration.
Spamer, 1999, p. 112

引用文献


  1. 本記事では「タイプ標本」という言葉を「種階級における担名タイプ標本」の意味で使用している。

  2. 第4版であったしてもSpamerの見解に変わりないことは、Spamerのメッセージを転送したメールから伺える(McCourt, 2005)。

  3. ebikusu (2009a)のブログ記事は、Stearnによるレクトタイプ指定や『Hunting Dinosaurs』に日本語で言及している貴重な例である。しかし以降のebikusu (2009b)を見るかぎり、どうやら非存在説が正しいと理解しているようである。ebikusu (2009a)でも引用されている大久保 (2006)の影響があると思われる。

  4. インターネット上でリンネ説に肯定的に触れた記事のいくつかは、英語から日本語に翻訳されたものである(Callaway, 2014; Airhart, 2018)。

  5. 唯一、ヒトの「亜種」として野生人(Homo sapiens ferus)を記載する際にいくつかの実例(例:リトアニアの熊少年)を挙げている。Spamer (1999)では特にこれに触れていないが、私の解釈では、当時は亜種を後天的なものとみなす考えが一般的であったこと、他の亜種には振られている箇条書きの行頭番号(α–ε)が野生人にはないことを踏まえると条72.4.1にある「明らかな変異だと(名称、文字、数などにより)述べた」に該当し、野生人の実例たちはH. sapiensのタイプシリーズから除外されるのではないか思われる。Notton & Stringer (2013)も同様の回答を示している。リンネの時代の亜種概念については岡崎 (2006, p. 11–12) が参考となる。

  6. 2000年よりも前の設立においては、タイプシリーズであるかを判断する際に「公表されたものであれ未公表のものであれあらゆる証拠を考慮に入れることができる」(条72.4.1.1)。

  7. 勧告ではあるものの、レクトタイプ選定において「産地の正確さを可能な限り確認するべき」とする勧告74Eを満たしている。また現在の標本の位置として、リンネの埋葬場所は「何番目の柱と何番目の間」レベルで詳細に記録されており、現在、ウプサラ大聖堂のその場所にはリンネの墓碑銘が存在している。

    The coffin was put down in the walled-in grave, at the north side under the organ loft, between the first and second pillars behind the women’s benches,
    Jackson, 1923, p. 341
    https://assets.atlasobscura.com/media/W1siZiIsInVwbG9hZHMvcGxhY2VfaW1hZ2VzL2YxMDUwNmRhLTE1YmEtNDZhOS1hZGZkLTRjNDU1NTFlZDA1Zjg5Mzc2Nzc0MWQ4ODFhYWQ4MV9JTUdfOTA0MS5KUEciXSxbInAiLCJ0aHVtYiIsIjEyMDB4PiJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA4MSAtYXV0by1vcmllbnQiXV0/IMG_9041.JPG

  8. 仮に編集者たちがリンネをレクトタイプだとみなしていないのであれば、シンタイプが複数の産地に由来しているため、H. sapiensのタイプ産地は複数記されることになるはずである(条73.2.3)。またSpamerの参照した第2版(1993年)から現在ウェブ上で公開されている第3版(2005年)までの間、タイプ産地の記述はとくに変更されていない。これらの点からも、編集者たちがリンネをレクトタイプとみなしていたと考えてよいだろう。

  9. ただ、個人的に気になるのが条74.3の存在である。これは「レクトタイプは個別に指定すべし」という条項だが、この中に「さらに、そのタクソンの定義を目的としなければならない」という一文が含まれている。スターンによるリンネのレクトタイプ指定が形式的なものであることはSpamer (1999)やNotton & Stringer (2013)も述べており、タクソンの定義が目的ではないことは間違いない。このため、スターンによるレクトタイプ指定は無効になってしまうのではないだろうか?仮にこれが正しいとすれば、ヒトのタイプ標本は、リンネの時代から変わらずシンタイプであるということになる。ただし、その場合でも非存在説やコープ説が成り立つ余地は存在しない。

  10. 「実際の標本は残されなかった」は「かつては残されていた担名タイプ標本が現在までに失われてしまった」という意味にも解釈できなくもない。たとえば、リンネの棺をいざ開けてみると遺体がすべて風化してしまっていた、という状況は十分に考えられる。この場合は、タイプ標本の喪失のタイミングがスターンによるレクトタイプ指定よりも先か後か、という点が重要になるかもしれない。しかしそう主張するためには、まず最初にリンネの遺体が現在そのような状態にあることを示さなければならないだろう。

  11. 加えて、大久保は生物学的種概念を「すべての人種を一つの種とするために考案された種の定義方法」と述べているが、生物学的種概念の提唱者であるエルンスト・マイヤーたちがそんなことを考えて提唱したのだろうか?私にはまったくそうは思えない。

  12. 私は『Hunting Dinosaurs』を実際に確認することができていないため、以下で記す『Hunting Dinosaurs』の内容についてはすべてSpamer (1999)からの孫引きである。

  13. シホヨスとバッカーの主張の問題点、とくにタイプ標本の価値に対する過度な誇張やコープの遺言の曲解(悪意を見出すなら「捏造」)についてはSpamer (1999)やSpamer (2002)で強く批判されている。